安住安楽が悪の根源

行徳哲男さん「キェルケゴールは裕福な家の育ちですが、父親が家政婦を手籠めにして産ませた子供でした。さらに、生まれながら脊椎の病気を煩い、屈折した青春時代を送りました。心配した父親は、彼をデンマーク郊外のジーランドという湖の畔に転地させました。そこには野性の鴨が飛んでくるのですが、鴨たちはおいしい餌に飼い慣らされて次第に飛ぶ力を失ってしまうのです。それを見たキュルケゴールは『安住安楽こそがすべての悪の根源だ』と言いました。ゲーテの言った『安住安楽は悪魔の褥』と同じです。戦後の日本人も経済の豊かさと平和に酔い痴れて安住安楽を貪ってきましたが、キュルケゴールはそういう生き方を厳しく攻撃し、飼い慣らされた太ったアヒルになるなと警告したのです」安住安楽を目指してしまいそうになるけれど、そうではなくて。

 

なんとなく生きていないか

行徳哲男さん「キュルケゴールはなぜ嫌われたのか。毎週日曜日に教会の前でバラまいたビラのせいでした。デンマークは宗教国家ですから国が教会を建て、牧師は公務員扱いされます。彼はその国教を『瞬間』というビラで攻撃したのです、『あなたたちは月曜から土曜までぼんやり生きてこなかったか。なんとなく起きて、なんとなく仕事へ行って、なんとなく家へ帰り、なんとなく語らい、なんとなく食事をとって、なんとなく床に入る。なんとなく生きることは犯罪ではない。しかし明らかなる罪だ』『日曜日になったら教会へ来て礼拝する。アーメンを唱え、十字を切る。牧師の話を聴き、だらだら生きる罪を赦して貰えたと錯覚して、また月曜からぼんやり生きる。曖昧に生きたことの罪を赦して貰わんがための教会の礼拝などやめてしまいなさい』と」瞬間。

既に全部備わっている

玄侑宗久さん「だから、毎日毎日、十分人生を楽しんだ、将来に貸しは残していないと言える状態にしていくべきじゃないかと思うんです。そう思うために禅では『知足』という言葉を使います。既に全部頂いて備わっているわけですからね。例えば何か怪我したらその怪我したことも含めて、全部何か意味があって起こっていることですし、過不足ないというふうに信じてれば不満を感じることもない。で、時間を連続して捉えませんから、一生のうちのピークがいつだという考え方は私もしません。例えば私はいま47歳ですけど、46年待ちに待った年がいま来た、と考えるんです。いつだっていまがピークなんです。ドゥーイングが衰えても豊かなビーイングと接する時間がその後来る。その意味では、人間というのは一生高まり続けていくと思うんです」待った年が。

将来に貸しはない

玄侑宗久さん「では、見えない因果や縁起に対してどうするか。それは、今日なら今日、この一時間なら一時間で生まれて死ぬっていうふうに区切ってしまうことだと思うんです。独立した今日、独立した今であって、連続していないと考えるわけです。その考え方を禅では『日々是好日』と言います。毎日毎日が独立して良い日なんですね。例えば今日一生懸命何かをやるのも、将来の果報を期待して我慢してやっているのでは、その先が来ないと納得できない。だから、今日やっていることのご褒美は今日もらってしまう。つまり、今日一日とても楽しかった、素晴らしかったと思えば、今日のご褒美は今日全部もらえて、たとえば明日は来なくてもチャラ。将来に貸しはないわけです。そういう“これから”っていうのは来ないんです」今日一日のなかで清算してしまう考え。

否定語の多い人は

渡辺尚さん。「仕事や人生に成功する人、失敗する人には驚くほど共通した点があることに気づきました。一つは会社や上司への愚痴、悪口、不平不満などマイナス言葉、否定語の多い人は人生でも仕事でも決してうまくいかないという点です。レールを外れ辞めざるを得なくなる人の中には、マイナス言葉のオンパレードという人が少なくないのです。自分の損得にこだわる傾向にある人も、長期的に見たらうまくいっていません。一方、再就職に限らず物事が順調にいく人は、その多くが感謝や褒め言葉のようなプラスの言葉を発し、周囲を和ませる明るい雰囲気の持ち主です。このように考えると、人間は普段思っているとおり、発している言葉どおりの人生を送ると言ってよいかもしれません。私たちは自分の心を変えようと思ってもなかなかうまくいきませんが、習慣を改めることは可能です。人生や仕事を幸せに導く第一歩は言葉を変えることです」口癖。

『惜福』の工夫

幸田露伴さん。「幸福か、不幸かというのも、風が順風か逆風かと同じ。つまりは主観による判断で、どちらかに定まっているわけではありません。『幸福を得る人』と『そうでない人』を比べてみると、その間に微妙な行動の違いがあるようです。第一に、幸福に合う人を見ると、多くは『惜福』の工夫がある人であり、そうでない不運の人を見れば、十人のうち八、九までは少しも『惜福』の工夫がない人です。『惜福』とは何かというと、福を使い尽くし、取り尽くしてしまわないようにすることです。たとえば手元に百円(今の十万円くらい)をもっていたとして、これをすべて使い果たし、半文銭(五円玉くらい)すら残らないようでは『惜福』の工夫がないと言えます。つまり、必要なもの以外には使わず、無駄なことに浪費しないのが『惜福』なのです」浪費しない。

よい妄想の効用

永田勝太郎さん。「ヴィクトール・フランクル先生がアウシュビッツ収容所で家族全員を殺され、いつガス室へ行けと言われるかもしれない中を生き抜けたのは、基本的に楽観主義者だったから。アウシュビッツチフスにかかった先生は高熱を発しました。今夜もし寝てしまったら、私は明日の朝、死体になっているだろう、と。一方、頭の中では何を考えていたかというと、自分は米軍に救出されてウィーンへ帰る。そして、『一精神医学者の収容所体験』という本を書き上げ、それが世界的なベストセラーになってカーネギーホールに呼ばれると考えた。ホールを埋め尽くす聴衆を前に講演を終え、大喝采を受けている自分の姿を想像していたというんです。今夜死ぬかもしれないという、その最中に。僕は『よい妄想』というのは、実は大事ではないかと思います」心は自由。