悟りを楽しみつつ生きる

nakatomimoka2015-10-31

ひろちさやさん。「そもそも私たちが何のために仏教を学ぶかといえば、仏らしく生きるためです。その意味では、悟りを楽しみつつ人生を生きる。それがわれわれの仏教を学ぶ目的です。ですから、坐禅が、禅堂に坐ることだけをいうのであれば、道元はそんなものは必要ないと言うでしょう。道元にとっては、行住坐臥(歩き・止まり・坐り・臥す)のすべてが坐禅でなければならないのです。日常生活そのものが坐禅です。食べるのも坐禅。眠るのも坐禅。いわば仏が食事をし、仏が眠るのが坐禅です。そのことを道元は、『只管打坐』と呼んでいます。只管とは、宋代の口語で、『ひたすらに』といった意味。ただひたすらに坐り抜く、眠り抜き、歩き抜く、その姿こそが仏なのです。仏になるための修行ではなしに、仏が修行しておられるのです」ひたすら修行。