寂びの美意識

nakatomimoka2011-02-06

千宗屋さん。「しかしそれは、ただ何もない寂しさ、すべてが死に絶えた静けさとは違うのです。何かが満ち足り、過ぎ去った後に訪れる余韻を愛おしみ、味わうことに価値を見いだしているのです。それが紹鷗までの茶の湯の美意識だとすれば、『南方録』で対比的に語られるのが、利休の境地を示したとされる、藤原家隆の『花をのみ まつらん人にやまざとの ゆきまの草の 春をみせばや』です。すべて枯れ尽くし、真っ白の雪に埋もれた清新な世界があり、やがてそこから万物が生い育っていく春が来る、その春を待ち焦がれる人の心の中にはもう既に春はある、始まっている、というのが利休の美意識だと。全てを味わい尽くした後の余韻を楽しむ紹鷗の『侘び』と、今あるもの・ことから無限にイメージを膨らませていく、より能動的な利休の『侘び』」侘びの境地を。Photo:[H]