退屈と気晴らし

國分功一郎さん。「退屈をしているとき、私たちは退屈を押さえこもうとする。退屈を押さえこむにあたって求められるのは気晴らしである。私たちは気晴らしによって退屈を押さえこもうとする。こうして気晴らしに注目すると、また再び、時計を見るという動作が目につく。何度も繰り返し時計を見てしまうとき、私たちは単に現在の時刻を確認したいのではない。いま何時何分であるかを知りたいのではない。そうではなくて、列車の発車までまだどれだけ時間があるのかを知りたいと思っている。では、なぜそれを知りたいと思うのか。目の前に現れている退屈を相手に、あとどれだけこの成果のあがらぬ気晴らしを続けなければならないのか、それを確認したいからである。いま私たちは退屈と闘っているけれども、その闘いがうまくいっていない」どれだけ続くのか。