退屈と気晴らし

國分功一郎さん。「人間であるとは、退屈と気晴らしとが独特の仕方で絡み合ったものを生きることであった。ならば贅沢を取り戻すとは、退屈の第二形式の気晴らしを存分に享受することであり、それはつまり、人間であることを楽しむことである。消費社会とは、退屈の第二形式の構造を悪用し、気晴らしと退屈の悪循環を激化させる社会だと言うことができる。人間はおおむね気晴らしと退屈の混じり合いを生きている。だから退屈に落ち込まぬよう、気晴らしに向かうし、これまでもそうしてきた。消費社会はこの構造に目をつけ、気晴らしに向かう先にあったはずの物を記号や観念にこっそりとすり替えたのである。それに気づかなかった私たちは、物を享受して満足を得られるはずだったのに、いつの間にか、消費のゲームのプレイヤーにさせられてしまっていた」消費。